この記事でわかること
- 2009年の政権交代はなぜ「歴史的」で、なぜ3年で終わったのか
- 政権が交代するための条件を選挙制度・世論・野党の観点から整理
- 日本で政権交代が「稀」な理由を構造的に理解できる
概要
政権交代(せいけんこうたい)とは、行政権を担当する政党(与党)が全面的に交替すること。
近代以降、民主主義制度が確立した先進国において、政権をもつ与党とそれをもたない野党の交代をいう。かならずしも選挙による交代であることは問われず、政争によって選挙を経ずに議会内での多数派が変わった場合であっても政権交代の定義には合致する。
政権交代は二党制(二大政党制や複数政党制)ではしばしば行われる。議院内閣制をとる国家では通常、イギリスの庶民院、日本の衆議院など下院の多数党が入れ替わることで政権交代が起こる。大統領制をとる国家では大統領の出身政党が入れ替わることで政権交代が起こる。
成り立ち・背景
台湾では「政党輪替」と呼ぶ。同じ漢字圏の中国語で「政権交代(中: 政权更替)」と書いた場合、「レジーム・チェンジ(Regime change)」の中国語訳であり、日本語における「政権交代」と意味が異なることに注意。
権力の世襲が原則であった近代以前においては、非血縁者に対し、平和的に政権交代を行うことは例外であった。古代中国では武力で非血縁者から政権を奪うことを放伐、両者の合意によって政権を譲り受けることを禅譲と呼んだ。
世界各地の国家において、封建的政権移譲制度から権力者を国民による選挙で選ぶ制度を確立するまでには、しばしば、最高権力者に逆らう形によるクーデターでの政権交代が多く、クーデターには武力を伴うものが多かったために流血の歴史をみることも少なくなかった。
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法 (明治憲法) 制定で1890年(明治23年)から帝国議会が設置されたが、政府は当初議会の多数を占める民党に対して超然主義をとっていた。しかし日清戦争で政府と民党の協力関係が成立したのをきっかけに流れが変わり、1898年(明治31年)には自由党と進歩党が合同して憲政党を結成。超然主義内閣の限界を感じ、政党内閣を推進するようになっていた伊藤博文の推挙で日本最初の政党内閣の「隈板内閣」が誕生している。
憲政党が自由党系の同名の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂した後、1900年(明治33年)に前者は伊藤博文を党首とする立憲政友会を結成し、後者の憲政本党は1910年(明治43年)の立憲国民党、1913年(大正2年)の伊藤の政敵の桂太郎が創設した立憲同志会、1916年(大正5年)の憲政会を経て、1927年(昭和2年)に立憲民政党となった。明治末年まで、政友会の西園寺公望内閣と立憲同志会の桂内閣との間で政権交代が繰り返された。さらに明治末から大正初めと大正末の二度の護憲運動で絶対主義的官僚制が後退して政党政治が促進され、政友会と立憲同志会→憲政会(民政党)の二大政党制による政党政治の基礎が作られた。
関連項目
Politype的視点
2009年民主党政権の誕生は日本政治史上2回目の本格的政権交代だった。なぜ3年で終わったのか──その答えを「民主党の失敗」に帰するのは単純すぎる。選挙制度・官僚機構・メディア・有権者の期待値という複数の要因を重ねると、政権交代が「なぜ難しいか」の構造が見えてくる。