この記事でわかること
- 1955年に何が起きて日本政治の「骨格」が決まったのか
- 自民党が保守合同、社会党が統一──この対立構造が70年続いた
- 55年体制の「崩壊」と言われる1993年に何が起きたのかを知る
概要
55年体制(ごじゅうごねんたいせい)は、日本において、1955年(昭和30年)以降長らく続いた自由民主党・日本社会党(+その他)の2:1の構図による政治体制。1955年の社会党再統一と保守合同で始まり、1993年(平成5年)の衆議院議員総選挙において、自民党議員らが分裂による過半数割れ、社会党も惨敗となるなか、多数誕生した新党が議席を伸ばし、非自民党連立政権となる細川内閣が成立したことで崩壊した。
初出は1964年(昭和39年)に、政治学者の升味準之輔が発表した論文「1955年の政治体制」(『思想』1964年4月号)である。1960年代当時、左右統一した社会党が再び分裂し社会党と民社党になり、さらに公明党が台頭、新党が乱立する時代となっていた。
成り立ち・背景
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領下の日本において、GHQ指令により無産政党(日本社会党や日本共産党など)が合法化される一方、同時に保守政党が乱立する事態が発生した。
一方で日本社会党は、1951年(昭和26年)に講和条約と日米安全保障条約(安保)に対する態度の違いから右派社会党・左派社会党に分裂していたが、保守政権による「逆コース」や改憲に対抗するために、「護憲と反安保」を掲げて1955年(昭和30年)に社会党再統一が行われた。この日本社会党の統一に危機感を覚えた財界からの要請で、それまで存在した日本民主党と自由党が保守合同して自由民主党が誕生し、保守政党が第1政党となった。見かけ上は二大政党制となり広く歓迎されたが、基本的な議席の割合は自民党2/3・社会党1/3であり、二大政党制の長所であるはずの政権交代円滑化に資することはなかった。自民党は「改憲・保守・安保護持」を、日本社会党は「護憲・革新・反安保」を、それぞれ標榜した。
1955年(昭和30年)当時の世界情勢はアメリカ合衆国とソビエト連邦が主導する冷戦の真っただ中であり、55年体制も冷戦という国際社会に合わせた、いわば代理戦争としての日本国内の政治構造(「国内冷戦」)であると指摘する意見がある。一方、民主的なものであったことも指摘される。政治学者ジェラルド・カーティスは、「戦後の日本の自民党一党支配体制は、民主主義的だったと思います。その中には、革新陣営には社会党や、またその時は公明党も革新の方だったから、公明党、民社党、あと共産党がいましたが、やはり自民党に対してブレーキをかける役割を果たしていましたし、野党が国民に人気のあることを提案すると、自民党はそれを自分たちの政策にしていました」と述べている。
自由民主党は押し付け憲法論を主張、自主憲法制定を党是に定めた。1958年(昭和33年)の総選挙では互いに過半数にのぼる候補を立て、真っ向から争った。投票率76.99%は男女普通選挙になってからでは最高の記録であり、二大政党制への国民の関心の高まりを示したものといえた。
関連項目
Politype的視点
1955年に保守が合同し、社会党が統一した──この「2対1」の構図が日本政治を70年規定した。体制「崩壊」と言われた1993年以降も自民党が政権に復帰した理由を考えると、55年体制が完全には終わっていないことが見えてくる。現代政治を理解する「出発点」として必読。